支配と独立の連続だったクロアチア激動の歴史
クロアチアの歴史は強大な勢力からの支配と、そこからの独立の繰り返しで成り立っているといっても過言ではありません。
今でこそようやく平和で美しい国となっていますが、そこに至るまでは過酷ともいえる歴史の積み重ねがありました。
先史時代〜中世のクロアチア
現在のクロアチアのある地域では、石器時代には既に人類(ネアンデルタール人)が定住していた痕跡が北部のクラピナなどに残されています。
古代ギリシャ時代にはイリュリア人と呼ばれる民族が定住していて、紀元前4世紀にはアレクサンドロス大王に征服されたのも束の間、すぐにローマ帝国の支配下に入ることになります。
紀元前229年~168年の61年間に3度に渡って勃発したイリュリア戦争によって、ローマ帝国は現在のマケドニアからクロアチア北部に至るアドリア海沿岸地域を、現在もその名を残す「ダルマチア」属州として支配下に収めました。
ローマ皇帝ディオクレティアヌスはダルマチア属州の首都サロナ(現在のスプリト市街地の北)出身で、305年に退位した後は故郷に戻り、現在スプリトに残るディオクレティアヌス宮殿で余生を過ごしています。
395年にローマ帝国が東西に分裂し、ゴート族の侵入を許すものの、結果的にダルマチア属州は東ローマ帝国(ビザンツ帝国)に継承されることになります。
6世紀前後には現在のハンガリーを起源とする遊牧民族アヴァール人の侵入を受け、その際にスラブ民族、つまり現在のクロアチア人・セルビア人の始祖となる民族がバルカン半島に定住したとされています。
803年にカール大帝率いるフランク王国がダルマチア北部を占領するも、数十年でビザンツ帝国が奪回に成功します。
時を同じくしてトルピミル1世、ヴラニミルらの出現によりクロアチア人の独立意識は高まりを見せ、ザダルの北にある海沿いの街ニンの長だったトミスラブ1世により、926年にパンノニア(現在のオーストリア、スロベニア、クロアチアにまたがる地域)とダルマチアをクロアチア王国として統一することに成功し、長く続いた支配の歴史から脱することになったのです。
しかしその独立も王位継承問題を発端として長くは続かず、1100年代にはハンガリーの支配下に入ることになります。
この頃にはアドリア海で圧倒的な支配力を誇っていたヴェネツィア共和国にザダルを始め沿岸地域を勢力下に収められていたため、1300年代まではお互いが奪還しあう争いが続き、さらに1200年代には逃亡したハンガリー王を追ったモンゴル軍の侵略・破壊を受けることになってしまい、国土は荒廃します。
1453年にオスマン帝国がコンスタンティノープル(現在のイスタンブール)を占領、東ローマ帝国が滅亡するとバルカン半島にも進出を始めます。
既にアドリア海沿岸の殆どをヴェネツィア共和国に奪われていたクロアチアは、1500年代にかけて行われた対オスマン帝国の紛争にも敗れ、ハプスブルグ君主国(オーストリア)の支配下に入ることで滅亡は回避したものの、国土の2/3を失い、多くの住民がイタリアやオーストリアに難民として逃れることになってしまいます。
1699年に結ばれたカルロヴィッツ条約(オスマン帝国と欧州各国との講和条約)により一部はオスマン帝国から一部が戻ってきたものの、その部分はそのままオーストリアの支配地域となり、ダルマチアはヴェネツィアに割譲と、3つの勢力に分断された状態が18世紀まで続くことになります。
16世紀以降、ハプスブルグ君主国とオスマン帝国支配地域の境に「軍政国境地帯 Vojna krajina」と呼ばれる緩衝地帯がスラヴォニア地方(現在のクロアチア東部)に設置されていて、ここにはクロアチア人、セルビア人(この頃のセルビアはオスマン帝国支配下)が警備兵、または農民として入植していました。
結果、この共生が後に1990年代のクロアチア紛争の遠因となります。
1630年にハプスブルグはこの地域での自治を「ヴラフの規約」により認めるものの、1700年代から1800年代にかけては民族同士の対立による内乱や飢餓が頻発し、結果的にハプスブルグの支配と影響を強めることになります。
一方、その頃ドブロブニクは一定の自由の自治権を保った「ラグーサ共和国 Respublica Ragusina」として独立を保っていました。
1358年にハンガリー王国から独立し、ヴェネツィアなどと肩を並べるアドリア海の都市国家として隆盛を誇り、イタリアからのルネサンス文化の流入、都市国家ゆえの多民族共生、特に土木技術や法体系などが高度に発展した、まるで現在のシンガポールのような発展を見せていました。
ただ、1667年に起きた大地震と、時を同じくして迎えた地中海貿易の不振により共和国は隆盛は陰りを見せ、1806年にナポレオンの進撃を受け降伏することになります。
1809年にはオーストリア帝国(1804年にハプスブルグ君主国から改称)がナポレオンに敗北、シェーンブルン条約によってダルマチアは割譲され、ドブロブニクを含むダルマチア沿岸はフランス帝国領イリュリア州となりました。
この間、フランスから持ち込まれた技術や知識によって、道路の整備や衛生面での向上などがもたらされたものの、この時代が長続きすることはありませんでした。
1815年にワーテルローの戦いでナポレオンが敗北しフランス帝国が崩壊、ウィーン議定書により再びダルマチアはオーストリア支配下へと戻ることになります。
しかし、この時代を契機としてクロアチア人・セルビア人知識層を中心に急速に民族意識の高まりを見せ始めます。
1848年3月にザグレブで開催された民族会議において、クロアチアの領土、独立、言語などについての要求がまとめられ、1868年にはオーストリア・ハンガリー帝国から総督を迎え入れることを条件に自治権を獲得します。
また、クロアチア人だけはなく既に1830年に自治権を獲得していたセルビア人とも協働、1900年初頭にかけて南スラブ民族全体での独立を目指す「ユーゴスラビア(=南スラブ人の土地)統一主義」が徐々に目覚めていきます。
1905年のリエカ合意・ザダル決議によりクロアチアとセルビアは正式に連合を結成、まだ存続していた軍政国境地帯とダルマチアの統一を目指します。
1908年にボスニア・ヘルツェゴビナ(サンステファノ条約によりオスマン帝国の完全支配から脱して自治権が付与)がオーストリア・ハンガリー帝国に併合されるものの、当時のボスニアには既に多数のクロアチア人、セルビア人が居住していたこともあり、オスマン帝国下で改宗していたムスリム人も含め、ボスニアとしての独立よりも南スラブ民族統一へ傾くことになります。
2回の世界大戦、スラブ民族国家としての統一へ
1914年に勃発した第一次世界大戦は、ユーゴスラビア統一・独立の決定的な契機となりました。
1918年の大戦終結でオーストリア・ハンガリー帝国は消滅、1917年にコルフ宣言での合意に基いてついに12月1日に「セルビア人・クロアチア人・スロベニア人王国」、のちのユーゴスラビア王国(1929年に改称)が成立します。
ただし、「未回収のイタリア Italia irredenta」として19世紀からイストリア地方、ダルマチアのなどの領有権を主張するイタリア王国とは1924年まで調整が続き、ラパッロ条約と2国間友好条約に基いてイストリア、リエカ(フィウメ)、ザダール(ツァーラ)、トリエステはイタリアに割譲されることになりました。
こうして成立したユーゴスラビアは「単一のスラブ民族国家」としての道を歩み始めたわけですが、実際にはクロアチア人、スロベニア人、セルビア人、ムスリム人、アルバニア人など宗教の異なる民族がすべて取り込まれた国家だけに、その対立が表面化するまで時間は掛かりませんでした。
特にクロアチア人は実質的な為政者となったセルビア人によるセルビア中心主義に早い段階から反感を抱いていて、1928年の議会発砲事件などを契機としてクロアチアの独立が叫ばれるようになります。
1929年にはアンテ・パヴェリッチ率いるセルビア人中心主義の打倒・クロアチアの独立国家樹立を目標に掲げる民族主義政党「ウスタシャ Ustaša」が成立し、1934年のフランス・マルセイユでのユーゴスラビア国王アレクサンダル1世暗殺事件にも関与していたとされています(真相は今も不明)。
中央政府は分裂の流れを食い止めるべく、国名から特定の民族名を排除した「ユーゴスラビア」に改称し、行政区画改革、新憲法の制定などを行うものの、結果的にそれは国王へのさらなる権力の集中と独裁を招くことになります。
中央政府は最低でも自治権を求めるクロアチア人勢力を止めることができず、1939年にザグレブを州都とするクロアチア自治州を設置することになり一応の決着をみることになりました。
1930年代、第一世界大戦の敗戦国となったドイツでナチス(ドイツ国家社会主義労働者党)が台頭、世界大恐慌によって経済危機に陥っていたユーゴスラビアはドイツとの貿易依存度を深めていたこと(輸出入のほぼ半分がドイツ相手のもの)、さらにイタリアが同じバルカン半島に位置するアルバニア支配を強め出したことなどからユーゴスラビアは周辺国の動きに危機感を抱くようになります。
1939年の第2次世界大戦勃発後、ユーゴスラビアは中立を宣言するものの、最終的にはギリシャ以外のすべての周辺国がドイツをはじめとする枢軸側となったことから、1941年3月にユーゴスラビアは「日独伊三国同盟」に途中加盟することになり、枢軸側として参戦することになります。
しかし、わずか数週間でクーデターが発生し同盟離脱の動きを見せると、即座にドイツ、イタリアなど枢軸国がユーゴスラビアに侵攻、わずか1週間で全土を占領されることになります。
クロアチア自治州は枢軸国の侵攻直後に蜂起し、1941年4月10日にウスタシャ主導のもとで「クロアチア独立国 Nezavisna Država Hrvatska」の建国を宣言します。
ウスタシャはナチスの手法を模倣、総統を頂点とする単一政党による独裁政治を行う実質的なドイツの傀儡国家であり、ドイツ本国と同じくユダヤ人やジプシーなどの迫害、体制反対派などの政治犯などの掃討に乗り出します。ついにはユーゴスラビア本国の侵攻にも加担し、セルビア人も迫害の対象としていきます。
1941年6月にクロアチアは単独で日独伊三国同盟に加盟、ドイツのソ連、アメリカ、イギリスに対する宣戦布告に追随し自ら戦火の中に身を投じていくことになります。
ユーゴスラビアと「クロアチア社会主義共和国」
1945年5月、ドイツの降伏に伴ってクロアチア独立国も終焉を迎えます。
敗戦国となったクロアチア独立国は消滅、大戦中占領下にあったユーゴスラビアで準備されていた「クロアチア人民解放国家反ファシスト委員会」によってクロアチア連邦国が設立され、11月29日には「クロアチア人民共和国 Narodna Republika Hrvatska」が成立、これはパルチザンとして枢軸国からユーゴスラビアを解放したヨシップ・ブロズ・チトーらによって作られた共産主義国家「ユーゴスラビア連邦人民共和国」の一部としての国家であったため、独立への道は再び閉ざされることになります。
しかし、チトーによる共産主義国家はソ連のそれとは一線を画するものであり、1963年に国名も「クロアチア社会主義共和国」と改称、スターリンとも決別し独自の路線を歩んでいきます。
もともとクロアチア人であるチトーは戦前のようなセルビア人中心主義ではなく、連邦加盟国それぞれの権限の強化を行い、比較的緩やかな連邦制度のもと「兄弟愛と統一」をスローガンに、ソ連の影響下に置かれ実質衛星国と化した東欧諸国に比べると飛躍的な経済発展を遂げていくことになります。
ユーゴスラビア時代のクロアチアは、人口ではセルビア人に劣るものの、ザグレブを中心とする地域での生産力・経済力は首都ベオグラードを上回るまでに成長します。
しかし、終戦からしばらく抑えられていた民族自決の火種は消えることはなく、1971年に「クロアチアの春」と呼ばれるセルビア人による中央集権に対する抗議行動が発生します。
これに対してチトー(1963年から終身大統領に就任)はデモ主導者を逮捕投獄すると同時に憲法改革に乗り出し、1974年に制定された新憲法では各連邦構成国の権限の強化と、独立を宣言する権利を認める内容とし、実質的にこの抗議活動は成功をおさめることになります。
チトーは1980年5月5日に死去。
ユーゴスラビアの人々はこのときばかりは皆揃って嘆き悲しみ、この出来事はクロアチア人、セルビア人、その他の民族も含め、ユーゴスラビアという国家において一体感が生み出された最初で最後の時間でもありました。
1984年には冬季オリンピックがサラエボで開催され、チトーの目指した「兄弟愛と統一」が達成されたことを内外に知らしめることになります。
しかし、この背後ではチトーという絶大な影響力を持つ指導者を失った反動によって、それぞれの民族主義勢力が再び台頭していきます。
1987年にはセルビアで実権を握ったスロボダン・ミロシェヴィッチによって1974年憲法で規定されたコソボなどの自治権が停止され、セルビア民族主義が加速、セルビアに居住していた多くのクロアチア人が弾圧を避けて難民となりクロアチアへ脱出するようになります。
1990年には各連邦構成国内で自由選挙が行われるようになり、フラニョ・トゥジマン率いる民主主義政党「クロアチア民主同盟」がユーゴスラビアからの離脱と独立を希望する国民の圧倒的支持のもと勝利し、12月には共和国憲法を制定、1991年6月25日に「クロアチア共和国」がスロベニアとともにユーゴスラビアからの独立を宣言します。
完全なる独立を目指して(クロアチア紛争)
ついに晴れて独立となったクロアチアでしたが、セルビアはこの独立によってクロアチア国内のセルビア人が迫害されているという名目で、突如クロアチアへ侵攻を開始します。
これが長く続くことになるクロアチア紛争 Domovinski ratの始まりとなります。
クロアチア側はこの突然侵攻を全く想定しておらず、独立直後で正規軍の整備が整っていなかったこともあって緒戦において大きな打撃を被ることになります。
散発的に起きていた戦闘は1991年9月にユーゴスラビア連邦軍(事実上のセルビア軍)のザグレブ攻撃によりエスカレートし、これ以降紛争が本格化します。
東部スラヴォニア地方のヴコヴァルではクロアチア人・セルビア人の住民同士の戦闘が発生、町は完全に破壊されることになります。
またダルマチアでクロアチアの南北を繋ぐザダルやドブロブニクも包囲され、ドブロブニクは7ヶ月間に渡って海からの艦砲射撃を受け、美しい街並みが破壊される憂き目に遭います。
1991年11月には国連介入のもとで休戦に至りますが、実質的なクロアチアの敗戦という結果となり、セルビア人の多く居住するスラヴォニア地方やダルマチアが「クライナ・セルビア人共和国」として独立してしまったため、クロアチアは紛争前の1/3にも及ぶ多くの領土を失うことになります。
クロアチア紛争はその後1995年まで散発的な戦闘を除いて膠着化するものの、その一方でボスニア・ヘルツェゴビナではクロアチアに倣って独立を目指す動きが活発化し、1992年からはボスニア・ヘルツェゴビナ紛争が勃発。これによってユーゴスラビアはほぼ全土が、「かつて同じ国民だった者同士」による戦いの舞台となります。
クロアチアは休戦から1995年までの間に警察軍を共和国軍に再編、アメリカの支援の元で大幅な強化を行い、1995年5月にまず西スラヴォニアを奪還します。
続いて8月には「嵐作戦」と呼ばれる36時間の地上作戦でクライナ・セルビア人共和国は全土がクロアチアに奪還され、消滅。
ただし、東スラヴォニアだけは残され暫定的に国連管理下に置かれた後、1997年の住民投票によって帰属を決定することになり、クロアチア民主同盟が勝利したことを受けてこの地域もクロアチアに復帰することが決定、分断されたクロアチアの時代はついに終わりを迎えることになります。
一方、ボスニア・ヘルツェゴビナでの紛争もセルビア人、ボスニア人、クロアチア人の過去の遺恨による憎悪の連鎖も手伝って虐殺行為が相次ぎ、さらにNATO軍の介入によって泥沼の状況と化していましたが、1995年12月にデイトン合意が調印され、ようやく紛争は終結を迎えます。
2012年には住民投票を経てEU加盟を申請、2013年7月1日にクロアチアは28番目のEU加盟国となりました。(旧ユーゴではスロベニアに次いで2番目の加盟)